検証委員会等 2014/01/17 | 0 Comment

 市教委は「時間」「情報」「手段」があったことを早い段階でわかっていながら,隠そう,曖昧にしようとしてきました。証言,情報には精査が必要ということですが,市教委の文書等はかなりの精査が必要です。当日の避難行動を検証することは,市教委の事後対応の検証と切り離してはいけません。特に,平成23年3月~6月の間の教育委員会の対応については徹底的に検証するべきです。3.11の事実解明には不可欠です。

 私たち保護者は,たとえ津波が来てもしいたけ栽培の山があるから大丈夫と思っていました。あの山を登れない山だとは誰も思っていません。おそらく先生もです。
 21年まで毎年3月に椎茸栽培の体験学習が行われていて,あそこに登れることはみんな知っていたはずです。道もありました。校庭脇の山も崩壊しないようにコンクリート工事が施され,野球のボール拾いで登った子どももたくさんいるし,22年6月には低学年の授業で登っています。

 今まで体験したことのない大きな揺れの後に大津波警報発令です。少なくとも,すぐに登れるような体制にしておくのが普通ではないでしょうか。救うための条件「情報」「手段」「時間」がありながら救えなかったのは明らかです。
 迎えに来た保護者も,津波が来るから山に逃げてと訴え,子ども達も山への避難を進言しています。子どもさえ,避難に必要な情報を得ていたということです。

 それから,石巻市教育委員会はあの年の4月9日に行われた最初の説明会で,一本も木が倒れていないのに「山は倒木があり避難できなかった」,3月に「引き渡し中に津波」と報告されているのにその報告を隠し,6月の説明会で「12分前に移動開始」などと説明して,収束させようとしました。現在(H25.12月末)も,核心部分の生存児童の証言はなかったことにされたままです。

 このままではいけないと考え,私たちは必死に声を上げ続けています。ところが,いつのまにか立ち上がった検証委員会も,本質的な議論をしないまま,一般的な教訓を導き出し,終わろうとしています。山の写真をはじめ多くの情報,想いを伝えて来ましたが,ほとんど反映されません。
 学校で子どもを守るということはどういうことなのか,もう一度問い直さなければなりません。先生を信じ,じっと指示を待っていた子どもたちの想いに,命に,多くの人が向き合ってほしいと願っています。学校は子どもを守る場として,信頼されるべきです。

①説明会は約1ヶ月後。
 3月11日の震災以降,市教委・学校から遺族に対して経緯の説明はなく,その予定もありませんでした。3月末遺族等から事情を説明してほしいという要望を受けて,ようやく開くことになりました。
 非公開で行われた上,録音録画もせず,議事録も作られませんでした。遺族の録画テープを借りて1年以上経ってから議事録が作成されました。震災後の混乱の中とはいえ,誠意のない,杜撰な対応と言わざるを得ません。

②倒木のため山に避難しなかった?
 平成23年4月9日,遺族の要望を受けて行われた1回目の説明会で,学校と市教委は「山は地震の揺れで倒木があり避難できなかった」と説明しました。唯一の生存教諭A先生も「バキバキと木が倒れてきた。」と話しました。
 地震による倒木は1本もありません。6月4日,2回目の説明会では「倒木があったような気がした」と訂正になりました。

③説明会は2回で終わらせる予定だった
 2回目の説明会は6月4日。説明会の冒頭に「今日の説明会は1時間程度」という言葉。5月に児童などに聞き取り調査を行い,それをもとにした説明を行った後,質疑応答の途中で,時間だからと一方的に打ち切られました。その上,マスコミには「遺族は納得した」と答え,今後説明会はないと発表しました。
 あの説明会で遺族が受けたダメージは計り知れず,それで収束を図ろうとした市教委の姿勢はけっして許されるものではありません。
 また,5月に行った児童の聞き取り方法,内容について多くの疑問の声が上がりました。

④移動時間は12分?それとも1分?
 平成23年6月4日の説明会で,三角地帯への移動開始は15時25分頃と説明がありました。津波到達の12分前です。避難するには十分な時間です。
 子どもや住民の証言などによるともっと後ではと指摘を受け,その後,1月22日の説明会では約7分前,3月18日の説明会で「約1分前」と認めました。事故から1年以上経っています。

⑤隠されていた3月16日の報告内容
 震災4日後の3月15日,校長先生はA先生からメールを受け取りました。震災後初めての連絡とされています。内容は11日の報告だったはずです(メールは削除されている)。
 翌16日,校長先生は市教委に事故の報告に行きます。A教諭の報告内容を説明したはずです。
 その際の報告書(メモ)には「引き渡し中に津波」「屋根を越えて」「油断」と書かれていて「倒木」「避難」「三角地帯」という言葉はありません。つまりこの時点でほとんど避難行動をとっていないことが分かっていたのです。しかも,このメモは,24年の5月に開示要求をして明らかになったものです。市教委は,関係資料はすべて出したと言っていました。
このような報告がありながら,12分前に避難開始という説明していたことになります。
3-16kikitori
⑥「引き渡し中に津波」はだれの報告か?
 ⑤の内容,校長先生が3月16日に市教委に報告した「引き渡し中に津波」「油断」は誰から得た情報なのでしょう。前日にメールで連絡がついたA先生,と考えるのが普通ですが,避難所等で校長先生が聞いた側聞(誰かが言っていた言葉)だとのこと。だから信憑性は低いので資料として採用せず,表に出すこともなかったと言います。
 しかし,校長先生は,側聞したときの状況を何一つ覚えていません。ただ,A先生の話ではないと断言しています(何も覚えていないのに、この点だけは断言)。 聞き取りをした市教委の説明も曖昧です。

⑦ A先生からのFAXついて
 市教委は平成23年6月以降,もうやらないこととしていた説明会を再調査の上,行うことを表明しました。第3回目の説明会は24年1月22日,初めて報道も入りました。
 このとき,平成23年6月3日(2回目の説明会前日)に届いたというA先生からのファックスが公開されました。ところが,誰が受け取ったのか,どうやって市教委に伝えたのか,説明が二転三転しています。しかも,遺族にはおろか,市教委内でもごく一部にしか知らせず,ファイルに綴じ,綴じた本人がその存在を忘れていたと言います。市教委の言うように「A先生が力を振り絞って書いた手紙」だとすれば,あまりに杜撰な扱いです。教育長にもずっと知らせなかったと言っています。
 市教委は「保護者の皆様へ」と書かれた手紙(FAX)が6月3日に届いたにもかかわらず,翌日の説明会で公開しませんでした。その上,もう説明会はしないと発表しました。つまり,あのFAXの存在は永遠に隠すつもりだったのです。
 当時、本当にFAXがあったのかどうかさえ疑われています。

⑧ 担当者が突然異動
 23年度の担当者が2人とも転出し,24年の4月からは市教委に新しく入った2人の先生が大川小学校事故の担当ということも問題だと思います。引き継ぎも形式的なことだけで,23年度のことを指摘されても分からないので答えられません。だからといって「担当じゃなかったので」という言い訳は許されません。「これから改めて検討」「一からやり直すつもりで」では,どうしようもありません。ほんとうに真実を明らかにし,検証を進めるつもりがあるのかどうか疑問です。
事態を重く受け止めていないのに「重く受け止めている」と言う,その「軽さ」が,信頼を損ねていることに気付くべきです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

真の検証を進めるのであれば
事実を明らかにしなければなりません。
メモ廃棄,メール削除など,学校で多くの児童,先生が犠牲になったことを
ほんとうに重く受け止めているのかと
疑わざるを得ない回答,対応が重ねられてきました。

 事実を明らかにする過程で,市教委がどうしても曖昧にする点がいくつかあり,それを認めてもらうために私たちの質問が,いわゆる「重箱の隅をつつく」ようなものになっています。細かい質問をしないと認めてもらえないのです。 それでもなお,もう認めるしかない,という質問になると曖昧になり,あるいは「検討します」とまた先延ばしになります。メモは廃棄,メールは削除,最近では「時間が経って,よく覚えていない」という言葉も目立ちます。
 メモを廃棄しても,聞き取った内容がきちんと報告されていると言いますが,実際話した内容と違う点が複数出るなど,信頼性を著しく欠いています。説明会での様子からも,何かを隠そうとしていることは明らかです。
 子ども達が,犠牲になった友達のために一生懸命話してくれた重要証言も何点か消されています。

新しい道をつくる検証を
 その後も,波風がたたないよう,できるだけ早く収束を図ろうという対応が数多くあります。市教委の先生と話していると「命」という言葉がほとんど出てきません。「子どもの命を真ん中に置いて考えましょう」と呼びかけてきました。市教委が真ん中に置いているのは命とは別のものです。
 前例のない事態に対し,前例で対応するのでは意味がありません。今,起きていることの全てが前例になっているのだと言えます。学校も市教委も文科省も報道も,そして遺族も「命」にしっかり向き合い,力を合わせていかなければなりません。
 たしかに困難なことかもしれません,つらくて目を背けたいことかもしれません,しかし,一番つらかったのは,あの日,寒い校庭で,津波の恐怖におびえながらじっと待っていた子ども達です。巨大な黒い波が襲ってきたときの子ども達の気持ちを思えば,道はひらけてくると信じています。