14:46の地震から15:37の津波到達までは51分間ありました。

子どもは寒空の下じっと指示を待っていました。
15:35過ぎに車で学校の前を通った人は、その時まだ校庭に子どもがいたと言っています。

すぐそばに山があります。

校庭から1分ほどの体育館脇の山は傾斜が緩く、平成21年までは毎年3月に椎茸栽培の体験学習も行われていました。上が浄水場なので、道もありました。(写真左)
校庭のすぐ脇の山も平成22年6月に低学年が授業で登っている写真があります(写真右、校長先生が撮影し廊下に掲示してあった)。
5分あれば入釜谷方面への避難や、平成20年に植樹を行った「バットの森」にも移動可能です。スクールバスもすぐ出られるように方向転換して待機していました。地震による倒木はありませんでした。

山について

川のすぐそばです。

新北上大橋のたもと、つまり川のそばです。学校よりは数m高いものの高台ではありません。津波から逃れられる場所ではありません。
校庭から移動を開始したのは大津波がいよいよ迫って、川や側溝からすでに水があふれていた時です。一応上級生を先頭としましたが、整列する余裕などなく、列は乱れており,学年は入り交じっていました。移動時間は約1分、わざわざ民家裏の細道を通り(行き止まり)、津波が来るのに川に向かっています。 児童が追い込まれたのは、最も狭く、山の斜面も急な場所。校庭から移動した距離は先頭の子で約150m。1mも上には行っていません。
校庭から出るときは、幅70数cmのフェンスの隙間を通りました。つまり、1列で移動したのです。
状況から見て「避難」とは言えません。

三角地帯

大津波警報は校庭にいるすべての人に伝わっていました。

遅くても3時前後には、ここまで津波がくるだろうという情報がありました。津波が来たことのない地区で、大丈夫という意見もたしかにありましたが、早い段階で裏山への避難を進言した子ども、教員、地区の人、迎えに来た保護者がいます。ラジオも盛んに大津波警報、高台への避難を連呼していました。ラジオは校庭の指揮台の上にありました。
待機していたスクールバスには、会社から「津波が来る、子供を乗せて峠に逃げろ」という連絡が入っています。
3時25分頃に市広報車高台避難を呼びかけ釜谷を通過しています。

11人です。

当時の大川小学校は在籍108名で、74名の児童が犠牲になりました。(死亡70名不明4名 2022.3現在)欠席や早退、引き渡しによる下校で帰った児童以外、つまり校庭にいた子どもで助かったのは4名だけです。
大川小の職員は13名。2人が不在で事故当時は11人の教職員がいました。そのうち10名が亡くなっています。

ハザードマップは「安全マップ」ではありません。

高裁判決はハザードマップの限界を指摘し、見直しと適正化を推進しています。

ハザードマップには「浸水の着色のない地域でも、状況によって浸水するおそれがありますので、注意してください」と記載があります。
どんなに科学が発達しても想定には限界があり、誤差も生まれます。ハザードマップは絶対ではありません。区域外が安全だと断定するものではないのです。

当時のハザードマップによると大川小学校は津波浸水予想区域ではありませんでしたが、600m離れた同じ海抜の場所には到達が想定されていました。
北上川のすぐそばの大川小は避難すべきでした。

ハザードマップは命を守るために有効に活用していかなくてはなりません。

※ハザードマップでは体育館、学校は津波震災区域外。避難場所になっている。

地域や先生に見守られ、子どもたちが楽しく学び遊んだ学校があったこと、あの日その多くの命が失われた事実を伝えるためです。

思い出の場所、未来への学びという遺す意義がある一方、見るのがつらい、費用がかかるという声もありました。

どちらも大事な意見ですが、なかなか話し合う機会は作れず、行政や専門家も議論を避けがちでした。

2015年3月、大川復興協議会は校舎保存についての集会を開催。その中で「全体保存」という地区の方針が示されました。

保存・解体、双方の意見が交換される中で、中高生が母校を遺す意義について意見を発表したことは特筆されます。

それを受け石巻市は、2016年3月市の震災遺構として校舎を保存することを決定しました。
簡単に決めたわけではありません。その経緯もしっかり伝えていくべきです。

この場所で、何をどう遺し、伝えていくかの話合いはまだ十分ではありません。50年後、100年後を見据えた取組みが必要です。

※卒業生が中心となり「Team大川未来をひらくネットワーク」が設立され、立場を越えた対話の中で、震災遺構の在り方を考えようという動きが生まれています。

ずっとそうじを続けてきました。

津波によりガレキに埋もれた校舎は、震災間もない頃からずっとそうじが続けられてきました。
全国のボランティアの皆さん、児童・先生の遺族、卒業生、以前大川小に勤めていた先生方・・・。
そうじ、花植え、草取り等、いろんな人の手により校舎はきれいに保たれてきました。(現在は石巻市が管理)

ここがどういう場所であるべきか、校舎が語りかけています。

2003年から2033年までに99%の確率でM8.0の宮城県沖地震が発生する想定がありました。(2004年3月 宮城県 防災会議)

99%の確率という想定をうけ、県・市は再三にわたり、各校に防災体制の見直しを指示しました。
2009年には学校保健安全法が改訂され「各校の実状に応じた防災計画の策定」が明記されました。

2010年2月8日、石巻市教育委員会は各校に対し、4月30日まで危機管理マニュアルを改訂するよう指示しています。
その見直しによって東日本大震災の時に適切な避難ができた学校もあります。

裁判では、想定がありながら事前の備えが不十分だった点が問われたのです。

宮城県防災会議「東日本大震災以前の事前対策」より

学校で多くの子どもが犠牲になったのは大川小学校だけです。
 
東日本大震災では関連死を含めると2万人以上が死亡・行方不明となりました。大川地区でも多くの方が犠牲になりました。
宮城県では183名の小学生が犠牲(死亡・行方不明)になりましたが、学校施設管理下(学校の敷地内に教師が一緒にいる状態)で犠牲を出したのは大川小学校だけです。過去の災害においても例がありません。

多くの学校は、津波到達のだいぶ前、あるいは結果的に津波が到達しなくても、念のために避難しました。一方で、備えが不十分で避難しなかったが、津波が到達しなかったので助かったという学校も少なくありません。ちょっとしたことで結果は逆になっていたかもしれません。

「備えがずさんだった」だけで済ませるべきではありま せん。特別な場所で起きた特別な出来事ではないのです。なぜこのような状況になったのかを、わが事に置き換えて考えなければなりません。

私たちには地震も津波も止めることはできません。重要なのは、津波が到達するかどうかではなく、避難するかどうかです。
「逃げたけど津波は来なかったね」でいい のです。

「逃げるべき」と「ここで大丈夫」両方の意見がまとまらず、時間が過ぎました。災害時の動きについて共通理解できていれば、もっと早く行動できたはずです。 

「逃げるかどうか」が決まりませんでした。
山に逃げようという意見もありましたが、警報のサイレンが鳴り響く緊迫感の中、怯える子どもたちを安心させたい、山は崩れるかもしれないなどの配慮もあったのかもしれません。校庭が安全だという意見が主導権を握ったようです。

避難しようという方針が決まったのは市の広報車が避難を呼びかけて通過した15:25頃です。そこから「どこへ逃げるか」の検討になりました。

話し合いの結果、15:36頃に新北上大橋のたもと(三角地帯)に向かうことになりましたが、津波は橋からあふれ向かった方向から襲ってきました。
意思決定の遅れが、判断ミスにつながったのです。

早く行動を開始した学校の多くは「逃げるかどうか」「どこへ逃げるか」を話し合っていません。決まっていたからです。

大川小も「津波警報の時は〇〇へ避難」と決まっていて、それをみんなが知っていれば、迷うことはなかったでしょう。

「津波が来ないから大丈夫」は「安心」ではなく「油断」です。「津波が来ても大丈夫」な備えでなければなりません。

訓練・マニュアルには「本番」があります。

避難の意思決定が遅れ、津波が迫り冷静な判断ができませんでした。

避難を始めたのは津波到達の約1分前。校庭を出るときに通ったのは自転車置き場脇の細い70数cmのフェンスのすき間です。一列でしか通れません。その後、民家の裏の山沿いの細い道を進み、行止りになりました。先頭の子が150mほど進んだところに川から津波が襲いましたたとえ1分でも山に走れば助かったはずです。

なぜ川の方向へ進んだのかは様々な理由が考えられますが、どれも憶測です。いずれにしても、サイレンが鳴り響く中、パニックに陥り、正しい判断ができなかったのです。

とるべき行動を、あらかじめみんなで確認していた学校はパニックになる前に避難しています。

高裁判決では当日の判断・行動ではなく、事前の備えが問われました。

一審では当日の行動が問われましたが、判断ミスにつながったのは平時における備えです。教育委員会の指示を受け、作成したマニュアルには「津波の有無を確認し、近隣の空き地か公園に避難」と書いてありますが、近くには空き地も公園もなく、職員間で共有されていませんでした。

管理下で児童生徒の安全を確保することは学校の「根源的義務」です。

宮城県学校防災体制在り方検討会議報告書(令和2年12月)でも「判決は、決して教育委員会や学校に対し不可能なものを求めているものではなく、教育委員会や学校が、災害から児童生徒等の生命や身体の安全を確保するため、学校保健安全法に基づき当然負うべき『安全確保義務』そのものである」とあります。

子どもにとって学校は、たまたま通りかかった場所ではありません。

事故をふまえ、学校が取り組むことは長時間の会議や研修、書類の作成ではありません。
「避難場所を決め、みんなで確認しておく」。やるべきことはとてもシンプルです。

現在は入れません。

校舎は、伝えるために遺しました。津波の痕や盛り上がった床、止まった時計など、その場に立って見ることで、あの日の状況がより伝わります。学校生活の様子も浮かんできます。伝承する上で大きな価値があります。

自由に立入りするのではなく、安全面、心情面を考慮し、ルール作りを進めていくべきです。

第一審は「当日の判断」第二審では「事前の備え」が問われました。

一審は、当日広報車が避難を呼びかけて学校前を通過した時点(15:28頃)で避難を開始すれば助けられたはずという当日の現場の判断ミスが問われました。
二審で問われたのは「当日」ではなく「事前」です。 99%以上の確率で地震・津波という想定を受け、市・県は各校の防災対策を指示。
対策の見直しのおかげで助かった学校もあります。

逃げるかどうか・どこに逃げるかはあの場で議論することではありません。事前に備えていた学校はパニックになる前に避難しています。結果的に津波が来なくても念のために逃げた学校もたくさんあります。

教育委員会は提出は求めたものの、提出された防災マニュアルの点検・指導をしていませんでした。
大川小以外にも、備えが不十分だった学校はあります。
津波が到達しなかったので助かりましたが、学校管理下での安全は「たまたま」で守るものではありません。

求められているのは、津波が迫る中での判断ではなく、平時の備えです。